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今日は村上賢司監督作『ラブホテル・コレクション―甘い記憶―』を観賞。
村上さんと出会ったのは今年の2月、僕がイメージフォーラムの学生だった時のことである。特別講師で村上さんが講義にいらしてくれた。その日、村上さんは本題のドキュメンタリーのことよりも、ラブホテルのことを熱心に話していたように記憶している。ちょうどその頃、本作を撮影中だったそうだ。
「ラブホテルの定義って知ってる?」と僕らに問いかけ、楽しげにラブホテルについて教えてくれた。ラブホテルとその他ホテルの違いは、部屋の利用者を性的に興奮させる装置の有無なのだそうだ。その装置とは例えば、回転するベッドや全面鏡張りの壁である。それゆえに、渋谷の円山町にあるほとんどのホテルは、ラブホテルを装っているが、その実態はただのビジネスホテルにすぎない!のであるという。
この事実は僕を震撼させた。何となく中学生のころから憧れていたラブホテル。高校生のとき彼女を誘い込むのに失敗したラブホテル。大学生になってやっと行けたラブホテル。しかしながら、僕が行った円山町のホテルはラブホテルなんかじゃなかったのだ!はじめて入るとき、受付のおばちゃんにあんなに負い目を感じたっていうのに・・・。本物のラブホテルに行きたい。2月の僕はそう思っていた。
そして8ヶ月がたった、今日の晩。ラブホテルに行かなくちゃいけないと思った。その理由は後述する。
映画がはじまり、タイトルが出たあと、カメラはとあるラブホテルの廊下をぬけ、予め選ばれた部屋へと入る。そこで僕らが遭遇するのは、なんと、らせん階段なのだ!廊下から階段を降りきるまでのこのひと続きのカットを体感した僕は、もはや映画の観客ではなく、「ラブホテル」の利用者になっていた。なぜなら、次々に映し出されるインテリアや部屋の装置の利用法を、無意識のうちに思考していたからだ。そして、天井から縄で吊るされたブランコのような椅子が登場するのだが、その椅子の上に見えるはずのない交わった男女を僕は見てしまった(そのうちの男が僕自身であることは言うまでもない)。なんという恐ろしい魔術なのだろうか。映画を見ることに危険はつきものなのは承知のはずだったが、思いがけずその危険な何かを確かに垣間見た。とてもスリリングな体験である。
そしてもう一つ言及しておきたいことがある。本編の上映前にあったトークショーで村上さんがおっしゃっていたことだが、「ラブホテル」は絶滅の危機にあるとのこと。新風営法というのが影響している。だから、このラブホテルという芸術を保存しておかないと、「映像を生業とする者として後世の人に怒られてしまう」。そこから、この映画の企画がはじまったと語っていらした。この言葉に僕はグッときた。
思えば、ヌーヴェルヴァーグの作家たちも同じ思考をしていたはずだ。トリュフォーやゴダールは自らが住む愛する街をフィルムに保存するために、カメラをパリの街にはじめて持ち出した。そして2009年、村上賢司は消え行く芸術にそれを適用させてみせたのだ。映画の根本というのはいつの時代もここ(ミイラ・コンプレックス)に行き着くと僕は確信した。
本編に出てくるラブホテルのうちで既になくなることが決定しているホテルもあるのだという。撮影があと一年遅かったら・・・とトークショーで金益見氏は胸を撫で下ろしていたのが印象的だった。僕らは映画でラブホテルに出会うことはできるが、実際に体験できる猶予はもはやないようだ。手始めに、東京タワーが望めるSMの館に足を運ぼうと思う(なんだか目覚めそう!)。
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「ラブホテルの定義って知ってる?」と僕らに問いかけ、楽しげにラブホテルについて教えてくれた。ラブホテルとその他ホテルの違いは、部屋の利用者を性的に興奮させる装置の有無なのだそうだ。その装置とは例えば、回転するベッドや全面鏡張りの壁である。それゆえに、渋谷の円山町にあるほとんどのホテルは、ラブホテルを装っているが、その実態はただのビジネスホテルにすぎない!のであるという。
この事実は僕を震撼させた。何となく中学生のころから憧れていたラブホテル。高校生のとき彼女を誘い込むのに失敗したラブホテル。大学生になってやっと行けたラブホテル。しかしながら、僕が行った円山町のホテルはラブホテルなんかじゃなかったのだ!はじめて入るとき、受付のおばちゃんにあんなに負い目を感じたっていうのに・・・。本物のラブホテルに行きたい。2月の僕はそう思っていた。
そして8ヶ月がたった、今日の晩。ラブホテルに行かなくちゃいけないと思った。その理由は後述する。
映画がはじまり、タイトルが出たあと、カメラはとあるラブホテルの廊下をぬけ、予め選ばれた部屋へと入る。そこで僕らが遭遇するのは、なんと、らせん階段なのだ!廊下から階段を降りきるまでのこのひと続きのカットを体感した僕は、もはや映画の観客ではなく、「ラブホテル」の利用者になっていた。なぜなら、次々に映し出されるインテリアや部屋の装置の利用法を、無意識のうちに思考していたからだ。そして、天井から縄で吊るされたブランコのような椅子が登場するのだが、その椅子の上に見えるはずのない交わった男女を僕は見てしまった(そのうちの男が僕自身であることは言うまでもない)。なんという恐ろしい魔術なのだろうか。映画を見ることに危険はつきものなのは承知のはずだったが、思いがけずその危険な何かを確かに垣間見た。とてもスリリングな体験である。
そしてもう一つ言及しておきたいことがある。本編の上映前にあったトークショーで村上さんがおっしゃっていたことだが、「ラブホテル」は絶滅の危機にあるとのこと。新風営法というのが影響している。だから、このラブホテルという芸術を保存しておかないと、「映像を生業とする者として後世の人に怒られてしまう」。そこから、この映画の企画がはじまったと語っていらした。この言葉に僕はグッときた。
思えば、ヌーヴェルヴァーグの作家たちも同じ思考をしていたはずだ。トリュフォーやゴダールは自らが住む愛する街をフィルムに保存するために、カメラをパリの街にはじめて持ち出した。そして2009年、村上賢司は消え行く芸術にそれを適用させてみせたのだ。映画の根本というのはいつの時代もここ(ミイラ・コンプレックス)に行き着くと僕は確信した。
本編に出てくるラブホテルのうちで既になくなることが決定しているホテルもあるのだという。撮影があと一年遅かったら・・・とトークショーで金益見氏は胸を撫で下ろしていたのが印象的だった。僕らは映画でラブホテルに出会うことはできるが、実際に体験できる猶予はもはやないようだ。手始めに、東京タワーが望めるSMの館に足を運ぼうと思う(なんだか目覚めそう!)。
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